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夜になっても読み続けよう。

地位も名誉やお金より、自分の純度を上げたい。

絶歌~2.無知の涙~

都内、某出版社。


「おおい。熊沢君は?」


社長は熊沢の姿を
ここ10日ほど見ていない。


オフィスの入り口で声をかけると
忙しそうにしている別の男性社員が答えた。


「熊沢さんなら、
ずーと、使ってない物置部屋にいますよ!」


物置部屋と言うか
たまに在庫を置いたりしている四畳半くらいの部屋だ。


「熊沢くーん!いるかい?」


ノックすると平坦な声で
中から
「どうぞ」
と熊沢の声が返ってきた。


ドアを開けて部屋に入った瞬間、
社長は叫んだ。



「なんじゃこりゃああああああっ!!」

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足の踏み場もない

とはこの事だ。


いろんな本が所狭しと積み上げられている。


「おはようございます。
あ、適当にまたいで下さい」

林立する本の中に熊沢が埋もれるようにして座り込み、
ノートパソコンで何やら調べものをしている。


うっかり、
本の山を1つ2つ崩しながら
社長は奥へと入った。

そして本を見て呟いた。


「心理学や犯罪白書は分かるんだが、
これは栄養学の本?

『今日の料理』?

なんでこんな本が混じってるの」


社長の質問に
ノートパソコンから目をそらさず
熊沢が答えた。


「この時期、『あの事件』の後、
未成年者の事件が立て続けに起こり、
偉い学者方の

『子供の異常な事件は
子供の脳に化学的な異変が起きてるに違いない。
その原因は食生活だ』

という主張流行ったんで、参考に」


はあ、なるほど

と呟いて社長は辺りを見回した。


「で、これから読むのかい?」



熊沢はものすごい早さでキーボードを打ちながら、社長を一瞥もせず答えた。


「いいえ。もう読みましたから」



「…………は?
これ全部?
全部、読んだの?
10日で?」


「はい。本が好きで出版社に就職したのですから、
読書は苦痛ではありません」


「ちょ…………ちょっとま待ってちょっと待って」


「ラッスンゴレライ」


そう言って、ようやく熊沢は顔を挙げた。


「テレビのない部屋にいると意外と早く、
大量に読めるもんです。
今度試してみて下さい」


社長はやはり、
何度も辺りを見回して言った。


「百冊は軽ーく越えてるのに、大したもんだよ」


「社長。前回の問いですが」


「今日の料理」を手に取りながら
社長は
「んー?」
と聞いた。


「あの手記ですが、
結論から言うと
うちからの出版は止めた方がいいです」


「今日の料理」から目を離して熊沢を見る社長の顔は
やはり社長の顔に戻っている。


「そのこころは?」


熊沢はきっぱりと答えた。








「この手記は







すごく売れるか
まったく売れないかのどちらかです。



そして、
まったく売れなかった場合、大きい副作用があります」







「今日の料理」を
その辺の本の山の上に置いて
社長は折り畳んであったパイプ椅子を広げると座った。


「…………スマッシュヒットで三万部、
ってのは可能性としてどう」


熊沢は両手を広げて言った。


「このテの『凶悪犯罪の加害者の手記』は
売り方次第です。

ここ数十年、日本でベストセラーになった物は、
ほとんどありません。

『様子を見よう。取り合えず一万部刷って』

の後、全く売れなくて
一万部は百冊の百倍だから
えーと、
この部屋に相撲取りが
上にも横にも三十人、
てなぐあいの在庫を抱える事になります」


「…………相撲取りが三十人って、
分かりにくい例えだなぁ。
確かに売り方が難しいのは分かるけど」


「会社としては
三万部売れただけでも一息つけるヒットでしょう。
けれど、
その場合も副作用があります。
どんな副作用かは後で説明しますが。

それで、例えば十万部の大ヒットを狙う場合、
どう広告を打つか
営業にどう本屋を言いくるめさせるか
すでにその時点で決まります。

残念ながら
うちの社で
十万部ヒットの広告を打つのは難しいでしょう。

ましてや『元・少年A』という言わば『覆面作家』。

そして、私は
この手記を売りたくないんです」


熊沢は淡々と言う。


「それは道義的倫理的に、って事かな」

「違います。
『凶悪犯罪の加害者の手記』
で成功した例ですが、
これは文壇も巻き込んで大変な事になりました」

「えー?そんな人間、いたかなあ。
加害者の手記って
確かによく出てるけど」


熊沢は
再び両手をパッと開いて微笑んだ。


「無知の涙」


社長が聞き返した。


「『鞭の涙』?」


「隠猥な響きに聞こえるのは気のせいでしょうか。

無しの無。

知性の知。

の涙。

ご存知でしょう」


社長は眉間を人差し指で押した。


そして顔を挙げた。


「ああ!古くて忘れてた!
知ってるよ、確かに」






当時、獄中から作品を発表し
その内容を
文壇から高く評価された『加害者』。









永山則夫



1969年に
無差別殺人で逮捕された。


当時、19才の未成年の「少年」だ。



無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)

無知の涙 (河出文庫―BUNGEI Collection)


〈続く〉