ラストエンペラーの二人の妻5~最後の晩餐はインスタントラーメン~
皆様、おこんにちは。
日本の占領地が奪い返され、日本国土にも原爆が落とされ、どうなるのか分からない中、怯える溥儀は、末期の満州国を捨てて避難します。
とは言え、この避難先も本によっていろいろ。
北京だったり、ソ連領近くだったり。
日本降伏のラジオ放送を聞いて涙する溥儀。
それで自分の身柄を保護してくれる国を探しますが、ことごとく拒否られます。
最後に日本からは
「来たらそれなりの対応をするけど、迎えには行けないから自力で来てね」
と遠回しに迷惑そうな返事をされます。
溥儀は宝石類を持ち、弟や側近数人と
車や飛行機で日本行きを決定。
残された婉容や弟妃(嵯峨浩さん)や側室には
「列車で来なさい」
と事実上、置き去りにしていきます。
途中に海がある訳だから、どないしろっちゅーの。
そして、溥儀達一行は、ハバロフスクでソ連に捕まり、中国に引き渡されます。
一方、婉容達は八路軍に捕らえられます。
そして、他の皇族や側近と共に
ある時は馬に乗せられ
ある時は荷車で
市内引き回しにされます。
「国賊」として。
この頃はまだ、麻薬を持っていて、チビチビ使っていた婉容でしたが、それでも嵯峨浩妃を女官だと思って、あれこれ世話させたり、実際、見ていて不憫過ぎるので、浩妃さんがお世話していました。
吉林省延吉の留置所で
ついに手持ちの麻薬がなくなり、禁断症状による錯乱から、やがて寝たきりに近い状態になります。
溥儀が東京裁判に出廷していた頃に、婉容は39才で亡くなっていますが、どこでどのようにかは分かっていません。
延吉の留置所から医療施設に移されたらしく、その施設では引き取ってくれる親族を探したのですが、実家も親類も拒否したと言われています。
亡くなった場所や墓所が分からないのは
延吉は北朝鮮のギリギリの場所にあり、そこから移されたのは、現在の北朝鮮にあたる場所の施設だからではないか
と推察している人もいます。
一方、終戦と北京解放で
戦争は終わったとは言え、中国内ではまだゴタゴタが続いていました。
文繍の夫は商売を諦めて、別の土地で農業をやる事に決めます。
そうして生活はドンドン、ジリ貧に。
箱に紙を貼る内職をしたり
元・皇帝側室なのがバレたら夫に迷惑がかかると親戚の家に一時期、隠れたり、苦労が続きます。
そして、ある日、夫が帰ってくると文繍は亡くなっていました。
死因は、ゆるやかな餓死。
これは食べ物がなかった訳ではなく、亡くなる前に会った人の話からすると
膵臓か肝臓の慢性的な病気を放置していて、食事を受け付けなかったからのようです。
46才でした。
中国共産党は溥儀を処刑せず
思想改造して模範的な一般人にした方が、プロパガンダに良いだろう
と判断します。
それまで石鹸の使い方も知らなかった溥儀に
収容所で、まるで家庭科のような手仕事を教え、きつく当たる事なく、人として対応します。
10年後、模範囚として出所し、植物園で働き始めます。
上司の世話、あるいは共産党のお膳立てと諸説ありますが、一般人の女性と再婚します。
この結婚は、溥儀に取っては初めて心安らぐものであったようです。
ここで微笑ましいエピソードがあります。
奥さんは看護師さんだったのですが、夜勤の日でした。
雨が降っていて、妻の勤める病院の前にあるマンホールの蓋が外れたままになっていました。
溥儀は一晩中、傘をさして、このマンホールの近くに立っていたそうです。
奥さんが、夜勤明けにうっかりハマらないように。
雨の中、ちょんちょこりん、と傘を持って立っている、不器用な、しかし、たまらなく優しい旦那像が浮かびます。
この奥さんが後年語ったところでは、溥儀とは一回も夜の営みがなく、不能だったそうです。
それが元々のものなのか、年齢的なものなのか、波乱の人生でPTSDみたいになってたせいかは分かりません。
そして、毎日、満漢全席食べてた身分の人が、晩年こよなく愛したのは
日清のチキンラーメン
でした。
病気で亡くなる寸前まで
「奥さ~ん、わたし、チキンラーメン食べた~い」
と言っていた、と聞いて
晩年は普通の人として普通の男性として
生きる事が出来たのだなぁ、と思いました。
大婚礼で盛大な結婚式をした二人の妻は
どこにも居場所がないまま、悲惨な亡くなり方をしていますが
「時代に翻弄された云々」
と言った、テンプレートでは語れない理由があると
私は思うのでした。
結婚当初、英語の教師が付けてくれた名前の
「ヘンリー」「エリザベス」で呼び合い
寝室で目かくし鬼ごっこをした幼い夜を
溥儀は思い出すことはなかったのかもしれません。
あの時代に亡くなった全ての方の冥福を。
いつも読んで下さって
ありがとうございます。
チキンラーメン、最強だなぁ。
水