少女終末旅行六巻~僕らの好きな世界の終わり~
皆さま、お久しぶりです。
体調不良もろもろ、ああ、そうだBBAだよ、わたしゃ。
泣けません。自覚あるから。
さてさて、ネットで人気の「少女終末旅行」が完結しました。
Web上では1月に連載終了してましたが、単行本化で加筆された部分を見て、Web版のラストページに「終わり」もfinもendも書いてない理由が分かりました。
アレでおわりじゃなかったらしいからです。
最近の「世界終末物」は何だか、まったりしてます。
少なくとも、地球規模で戦争が起きて忙しい、というような(「最終兵器彼女」など)とはかなり違います。
読んでいて、世界が終わるっちゅーのに癒されるとゆー、明らかに読み手のベクトルが変化してます。
それは今の世の中が、不景気やら、いろいろで、特に日本という国はもう先進国ではなくなりつつあり、衰退していくのが見えているせいもあるかと思います。
何より、世界の終わりの訳ですから、勉強や労働からは解放されてて、自分のペースで動くも眠るも構わないのです。
こうした世界観を「ポスト・アポカリプス」と呼ぶ方もいますが
「Cozy Apocalypse」
ともよぶそうです。
終末物の中で特に心に残っている作品があります。
こちらは巨大隕石がぶつかって後一週間で地球が終わる、という状況の中、主人公が長距離を徒歩やバイクを駆使して、恋人に会いに行く話です。
作中、いろんな人物が出てきます。
不倫相手に会いに行こうとした亭主を殺して、何と、食おうとしている主婦。
世界が後一週間で終了するのに、受験勉強をしている女子高校生
。
両親が死んで、この世界は夢だからと、ひたすら眠っている女の子。
元カレに会いに行こうとしている新婚の主婦(つまり、メインは台詞がないけれど胎児)。
おもしろいのは、全員女性で、お話が進むに連れて若くなっていきます。
特に最初の主婦なんですが、「あたし、お母さんだから」という歌詞でボヤった世界観と似ています。
これだけ無茶苦茶になってる世界で、フツーの主婦しようとしている部分と、やってる事は料理なんだけど、その材料が亭主という。
もう、愛なのか単なる狂気なのか、それすらもこの主婦は分かんなくなってます。
主人公は必死に正気を保ちながら恋人に会う事だけを考えて、ひたすら移動します。
ラストは「こう来たか!」と思いました。
こちらは米ソ冷戦時に、中国の将校がちょっかいかけたせいで、核戦争勃発。
地球の北半球は放射能で壊滅。
生き残った人々は、南半球で何とか営みを続けていましたが、無情にも放射能はそこまで来ていて、人々は緩やかに残った日々を送ります。
舞台はオーストラリアです。
米国の潜水艦艦長と、オーストラリアの女性が心を通わせますが、決して、一線を越える事はありません。
館長はニューヨークに残してきた妻子、勿論、生きているはずはないのですが、再び帰ってお土産を渡すためにあれこれしています。
オーストラリアの人々も、もう後数週間の命だと分かっていながら、半年先の畑の用意をしたり、カーレースに没頭したりしています。
派手な出来事はなく、わりかし淡々と日々を過ごし、狂う事もなく、「未来が存在しない」と分かっていても、先に向けて行動します。
後始末みたいな事を考えて動くのは、やはりお年寄りです。
異国の地ではなく故郷に向けて、潜水艦は出港します。その理由が切ないんですよね。
この帰航の先に、とある物があるのを艦長は知ってるからです。終末物の古典として優れた作品です。
それと「エヴァンゲリオン」の渚カヲルの名前の由来になった作品なのは有名です。
話を戻して、ケッテンクラートで上層部に向かって長旅をしてきた、ちととユーリ。
途中、カナザワという地図を作って旅している男性と出会い、別れます。
次に、飛行機を作っていたイシイという女性。
ケッテンクラートの修理と引き換えに、飛行機作りを手伝い、彼女は飛び立ちます。
そして、あちこちの寺院や墓でみかけた石像に似た「ヌコ」という小さな生き物。
砲弾やオイルを摂取して生きているのと、原子力潜水艦の入り口を開けられたり、何かと不思議です。
その正体は、でっかいキノコみたいな謎の生物・エリンギの幼体でした。
群れの一人から、地球は終わると教えられ、ヌコはエリンギ達と去ります。
ここが、めっちゃ、切ない。
最初は、ちととユーリと離れるのを嫌がっていたのに、結局、エリンギ達と行動を共にする事を選びます。
エリンギの一体は、最上階は見ていないが、この都市で生きている人間は、ちととユーリしかいないと言われます。
それからも、二人は最上階目指して、ゆるく旅を続けます。出会いはありますが、機械ばっかりです。
そもそも、世界がなんでこんな事になったかとゆーと、人は地上に足を着けて生きる事を止め、上へ上へと都市を積み上げて行きます。
人工が増えたせいか、はたまた、何らかの理由で人が住める場所が減ったせいか。
川や海、土から食料が捕れないから、工業製品みたいに作るようになります(ヘンにのっぺりした魚や、平たいイモ。缶詰や固形食料)。そのうち、機械が小型の物から始りますが、自立調整と勝手に増殖をするようになります。
アニメではハッキリと、二足歩行の大型機械が、人や都市を攻撃しています。
機械化によって生活していた人々は、ひとたまりもありません。
核弾頭をも食べて無効化してくれる存在のエリンギ達が、神と崇められたのも分かります。
下層に逃れた人間もいたのでしょう。しかし、エネルギーがなくてか、資源が枯渇してか、結果、終末に。
もう二人に残されたモチベーションは、最上階に行く事だけ。
そして大切にしてきた物を1つ、また1つと失う事になります。
このあたりから、ちとの独白が増えていきます。
達観とはまた違う、メンヘラとも違う、心が疲れて病みそうになってるのを、何とか留めているような感じのモノローグです。
そして、最上階が近くなり、ユーリと暗闇の中、手を繋いで階段をひたすら登って行きます。
「かけがえのない友達」とか、そんなレベルではない一体感。
そして、ちとが日記を付けていたのは。自分が生きて、この世界に存在していた事を残したかった証です。
そんな「当たり前のコト」すらをも、極限状態は許してくれません。
最上階に着いてからの、ちとの言葉がよーく分かります。
私は本を読むのが好きな人間ですが、それは「出来るだけ世界の全てを知りたい」からです。
けれど人生はそんなに長くないし、あちこち行く事にも限界があります。
ただ、本で読んだモノは「単なる知識」でしかないのです。
以前、小学生の男の子に、アマガエルの大きさを聞いたら、バレーボールくらいの大きさを手で作って見せられました。
この子が見た大型図鑑では、そう描かれていたからです。
見て、手に触れられる物が世界だった、と言うちとに、ユーリも同じ事を考えていたと言います。
私は職業上、生まれて数日で消える命を見る事があります。
けれど、1日生きたという事は、全てを見たのと同じだと思っています。
勿論、他の季節や草木や食べ物、それらを直接知る事は能わないです。
じゃあ、数千年間生きたら、全てを知る事が出来るのかと言うと、私はキッパリ、NOと答えます。
アニメのEDに出てきた雪合戦をして、生きる事は最高だったとユーリが呟きます。
広く、雪で真っ白な空間に、モニュメントのような黒い石。
それに寄りかかって、とりあえず少し眠って、それからまた、考えようと二人は寄り添います。
Webでは、これがラストでした。
単行本では
更に続きがあります。
二人がどうなったのかはボカしてありますが、 明らかに「眠って、凍死して、終わり」ではなさそうです。
てか、二人が居る場所がどうなっているのか、そして下層へ下層へと移り、再び最上階へ戻り……あ、あれ?
いろんな解釈が可能ですから、ぜひ、お読みになって下さい。
ただ、私は、子供やヤングが死ぬ、とゆーお話が好きではありません。
そうした願望も含めています。
けれど、あれだけの辛く長い旅路を乗り越えてきた二人です。
何らかの形で生きていて欲しいと願います。
人生が終わっても、その人がこの世界に存在していたという事実は、形を残していなくても、この星が消滅しても、確かに存在するのですから。
終わるまでは終わらないよ。
終わっても、終わらないよ。
つくみず先生、ありがとうございました。
いつも読んで下さって
ありがとうございます。
水
世界は美しいから。