夜になっても読み続けよう。

地位も名誉やお金より、自分の純度を上げたい。

「鬼滅の刃」の社会学~その5 竈門炭治郎~

中心の曖昧な主人公

炭治郎は、ひじょうにプレーンで、かつまたイノセントな魅力ある「正しい」主人公です。

作者の呉峠先生は、デビュー作の「過狩り狩り」に出てきた主人公、富岡義勇のプロトタイプみたいなキャラを、そのまま使う予定でした。
このキャラは、往来の主人公の中でも、多分、負の要素を煮詰めた感じで、他人との繋がりで成長していく……てなお話が似合います。

盲目隻腕という設定が、少年誌にはニッチ過ぎるという意見から散々、議論や検討を重ねて、「普通の男の子」である炭治郎になります。


f:id:slowstudy:20211212223038p:plain
「ナガレ」という名前だった初期主人公

反面、炭治郎はいつでも前向きで、どんな人にもフランクだし、素直な頑張り屋さんです。

ところで、主人公は「大きな欠落・空虚感・虚無」を抱えて、目的に向かうのが特徴です。
逆に、それが主人公を主人公たらしめています。
「鬼となった妹を人間に戻す」という、可能かどうか分からない目的が、それに当たります。
つまり、妹の禰豆子あっての主人公です。

また、主人公には「聖痕(スティグマ)」があるのも特徴です。
これは額の火傷痕が該当します。
この火傷痕は、後の「痣者」への伏線です。
弟を火傷から助けるため、自身が火傷を負うといった、自己犠牲の精神が子供の頃からあったという、主人公に相応しいエピソードです。

炭治郎が里に炭売りに行くシーンで分かりますが、大正時代には、電気・ガスといったインフラはかなり普及しています。
つまり、炭はそんなに必要とされていません。

調べてみましたが、大正五年で炭一俵が44銭とあります。
一円でだいたい4,000円の時代(諸説ありますが、戦争のせいで、物価の変動が激しいのと、値段表が本によってバラバラでした。現代の感覚に換算するのが私には難しいです。すみません)です。
白米は、大正一年には10キロで1円78銭です。

炭治郎に(鬼化する前の)禰豆子が、「私の物はいいから、下の子にお腹一杯食べさせてあげて」と言うシーンがあります(着物の反物は、木綿一反65銭)。
当時は副食が少なく、たくさん白米を食べて補っていたのと、弟妹の人数を考えると、やっぱり10キロは米を買って帰らなくては、と思います。

焼いた炭を、米俵3個以上売って買えるかどうかです。
着物も仕立ては自分でやるとして、反物は木綿でも1反1円はします。

時には弟妹と荷車で売るシーンがありますが、時には、それほどの量を売らなくては、生活が成り立たなかったでしょう。
また、それほど炭を持って行っても、多分、里では売れません。
実際、里の人達の頼みで、障子の張り替えや失せ物探しと、「何でも屋」みたいな事まで引き受けて、炭を買ってもらっています。

こんなに生活厳しいのに、鬼まで出るのです。


不思議なのは、そんな風に「過去の遺物となりかけている職業」である炭焼きを、炭治郎は何の野心もなく粛々とこなし、不満も持っていません。

家系図がある事から、竈門家は、炭焼きである事に、誇りとこだわりがあるのが分かります。
多分、先祖の炭彦が「はじまりの呼吸の剣士」に見せてもらった、「日の呼吸」を「神楽」の形で後世に伝えるため。
途中で転職(?)などは考えなかったのでしょう。

炭治郎の野心のなさや、自我の開放性は「無限列車編」で、かいま見えます。
魘夢によって眠らされ、深層心理にあたる「絶対領域」には、日が射し浅い水が流れ、分身である小人が、他者をも受け入れてくれます。
心の核を壊しに来た青年が、あまりの心地よさに核を壊すのを止めるほどです。
他のキャラが、他者を拒絶していたり、悲しい思い出しかなかったりするのに、何なんでしょう。

これは炭治郎の無邪気な精神の現れでもありますが、そもそも、炭治郎には「触れられたくない心の闇」が存在しないようにも見えます。
ちょっとした嘘すら付けず、変顔になってしまうくらいですから、本当に裏表がない、そして、あまり多層的な心理を持っていないようです。
これは多分、家族と里の人以外とは接触していないからです。
要は、閉じたコミュニケーションの中で生きてきた証とも言えます。

家族を殺され、妹を鬼にされるに至って初めて、激しい憎しみや悲しみを持ちます。

柱合会議では妹を殺されそうになり、怒りが爆発。
そして「無限列車編」では強くなりたいと願う、「自分への欲求」、つまり「自己実現の欲求」が芽生えます。
現に、最終決戦での炭治郎は何か別人みたいです。

初期の、優しく聞き分けの良い少年の頃はいかにもで、少し窮屈な気すらしますが、話を追うごとに、人間臭くなっていく姿に安心します。

どこか「少年誌にありがちな、ひたすらしゃかりきな主人公」から、青年期の思慮深い自我へ目覚めて行く所は、胸に迫る物があります。
だから、生への渇望から幼稚で利己的な無惨を憎むのでしょう。

炭治郎の主人公としての特異性は、その
「普通過ぎるくらいの普通さ」
です。

例えば「こち亀」の両津さんや、「ONE PIECE」のルフィ、「DRAGON BALL」の悟空のような、見るからに奇抜で、何でも出来て、性格も独特で、カリスマ性すら発揮する主人公とは違います。
逆に、そういう「目立つ・カリスマ性のあるキャラではない主人公」も、他の数ある物語の中に存在してます。
「主人公としてはイマイチ目立たないが、それゆえにストーリーを進めていける」という主人公です。

それは、消滅寸前の堕姫と妓夫太郎の兄妹喧嘩を、止めさせるシーンにも顕著に現れています。
ストーリーの中心に存在しながらも、自己主張しない上に優しい、炭治郎の役割をよく表しています。

また、自身の役割を淡々と引き受ける姿も異色です。
炭治郎には「厨ニ病」も「反抗期」も感じられません(見てみたい気もしますが)。
昨今の少年少女は、どこか大人になる事を拒んでいる場合が多いです。
こんなに自然体に、家や家族を養う覚悟を纏っていける子供が、現代はどんだけいるのか。

「準主役」のキャラが多くいるバトル漫画では、こうした「オレがオレが」と自己主張の激しい性格ではない主人公の方が、ストーリーが上手く回るし、他のキャラの掘り下げも出来ます。

「虐待サバイバー」が多い他のキャラに対してですが、聖書のマタイ伝には
「持ちうる者はますます持ち、持たない者はますます失う」
という言葉があります。
貧困が世代で連鎖するのも、このせいです。

任務で会った善逸に自分のおにぎりを渡す炭治郎。
自分も一個しか持ってないのに。
それを聞いて、半分にして返す善逸。
これは炭治郎が「持ちうる者」であり、惜しげもなく人に与える事が出来るエピソードです。

ファンブックでは、「命の前借り」をする「痣」が出現しているので、自分は長くは生きられないかもしれないと、静かに覚悟しているのも、成熟の現れでしょう。

この「痣」については「小道具」として機能しているのですが、それはまた後述させて頂きます。
だって、長生きする可能性もあるし。

次回は「竈門禰豆子」です。