「鬼滅の刃」の社会学~その6 竈門禰豆子~
彼岸と此岸を渡る乙女
禰豆子は鬼でありながらも人を食べる事なく、時には兄とタッグを組んで、他の鬼と闘う少女です。
これは往来の「魔法少女」「戦闘少女」の系譜をなぞっているように見えて、実は少し違っています。
知的には幼児にまで退行しつつも、兄は分かるし、鱗滝の暗示によって「人間は自分の家族」だと思っています。
しかも、自我があります。
無惨が千年もの間探していた「青い彼岸花」ですが、実は竈門家のすぐ近くに存在していた事が、後に明かされています。
彼岸花の根は、飢饉の時の困窮食です。
有毒ですが、何度も水にさらしてアクを抜けば食べられます(危険なので試さないでね)。
もしかしたら、禰豆子も食べていた可能性があったのではないか、と思うのです。
それで、鬼の血にも耐性があったのかもしれません。
日光を克服出来たのも、そこら辺に何かあったように思います。
ヒトと鬼としての存在を行きつ戻りつしながら、他の人間には決して危害を与えない、てのは大変だったでしょう。
現に、不死川兄が自分の血を飲むように挑発した時、我慢して我慢して我慢して、拒否しています(つまり飲みたい)。
「遊郭編」では、鬼化が進み暴走しかけてます。
「ヒロイン」は、物語の決定権は持たないものの、主人公の手助けや補佐、時には、インスピレーションを与える大切な役割があります。
それが、何だか二年間も寝ていたり、肝心の最終決戦には参加(?)していなかったりと、存在感があやふやです。
私としては
「よくも、母ちゃんと弟妹達を殺しやがって!」
と踵落としを無惨にキメるシーンなど見たかったです。
ただ、「ヒロイン」としての役目を、禰豆子だけに固定してしまうと、物語の上では「どこかしら淫靡な兄妹」になる危険性があります。
だからでしょう、炭治郎と禰豆子の間柄は、いつもひじょうに健全です。
それだけでなく、禰豆子は、善逸に取っての「ヒロイン」でもあります。
鬼と名の付くものは全て憎んでいた、胡蝶しのぶの価値観を変えてしまったり、孤独な珠世を癒したりと、「みんなのヒロイン」になってしまってます。
これは「ヒロイン」と言うよりは「巫女」に近いです。
自我を取り戻し、暴走する炭治郎を抱き締めて、なだめる台詞に泣けます。
「優しい人達ばっかりがどうして、みんな辛い目に合うんだろう」
これは現代にも通じる問いです。
長女としての禰豆子はあまり描写がありませんが、炭治郎同様、弟妹を思いやる優しいしっかり者でした。
禰豆子は「鬼にならなくてはいけない時期」が必要だったのではないか?
とすら思います。
炭焼き職人だったころの炭治郎は、世の中の格差などを淡々と受け入れていました。
養わなくてはならない家族と、後世に伝えなくてはならない物があったからです。
家族を惨殺されて、初めて、「理不尽な物に対する怒り」を覚え、「自分の人生は自分で作らなくてはならない」と目的意識を持ちます。
少なくとも炭焼き職人の頃は「強くなりたい(物理的に)」と思ったりはしなかったでしょう。
禰豆子は炭治郎の、生きるモチベーションでもあり、重荷でもあります。
それを禰豆子はおぼろげに知っていました。
その贖罪として、鬼化した炭治郎の暴走を必死で止めます。
この時に、炭治郎が禰豆子に噛みついた事が、結果として人間へ戻る要因の一つになります。
あえて、穿った見方をしてみましょう。
炭治郎には実は負の気持ちが相当、蓄積されていたとします。
実は炭治郎が自覚せず、心の奥に溜め込んでいた不平や不満が、鬼化へのエネルギーの一部になったと考えます。
だから、今まで自分を縛っていた妹(命よりも大切だと公言していた存在)に噛みつくという行為は、鬱憤晴らしです。
そこで炭治郎は、鬼殺隊に入ってから学んだ、人の心が起こしてきた奇跡を追憶します。
その時に
「一緒に家に帰ろう」
と優しく「現実」から差し伸べられた手は、禰豆子の物でした。
天啓を受けて、それをヒトに授ける、彼岸と此岸にいる乙女。まさに巫女の仕事です。
鬼として一時期生きた禰豆子が、人間に戻り、誰よりも愛してくれた善逸と結ばれた事が、最終回では示唆されています。
「少年誌らしい大団円」というよりは、「乙女としてのパワーはひとときの物で、いずれは普通の人間として、普通の人生を必死に生きなくてはならない」事への示唆にも思えます。
現に、人間に戻った禰豆子は「本当に普通の女の子」です。
だからこそ、読者の私達は安心出来るのです。
未来永劫、戦いを運命付けられた「戦闘・魔法少女」ではなく、いつかは普通に主婦やオバサンになっていきます。
けれど、家事も育児も、鬼並みに頑張らないいけない「命懸け」の行為です。
誰かに何かに、この生きている事の大変さや素晴らしさを繋いでいける。
だから、この日々を生きていけるのだと気付いた時に。
おまけ*大正時代の着物(和服)の値段ですが、実は絹製品は今より安かったようです。
仕立て済で二万円代で買えたとあります。
言うまでもなく、明治の開国以来、紡績に力を入れていた影響もあるのでしょう。
ただ、和服は下に別の物を重ねて合わせて着るのと、帯や帯留めなどの小物が多く、普段使いの着物でも、それなりにお金がかかったと思われます。
最近は自分で洋服の手作りするのが、地味に広まってますが良い事だと思います。
次回は「我妻善逸」です。